今回は山一抗争について調べていきますので最後までご覧いただければと思います。
Contents
山一抗争について
893の歴史の中ですさまじくひどい抗争ということで今現在も関心がもたれる内容です。
わからない部分もかなりありますのでわかる部分を考えていきます。
山一抗争という山口組と一和会の抗争について。
山一抗争というのは日本の893の中で最もひどいと言われている抗争です。死者が25人以上も出て、負傷者は数十人から数百人はいたのではないかと言われている抗争です。
山口組の3代目である田岡一雄組長のあとをどうするのか?ということがこの抗争の原因であると言われています。田岡一雄組長と山本健一のふたりがなくなってしまったことでここからどうなるかということが注目されましたが、田岡一雄組長の嫁の推薦があり4代目の竹中正久が就任したことをよく思わなかった山本広らが竹中に反対して一和会を結成し、ここから山口組と一和会の対立ということになっていきますが、一和会のヒットマンが竹中正久を●そうと画策していきます。
ここからは一和会のヒットマンについて注目していきます。
一和会のヒットマン(石川裕雄・長野修一)の行動について。
一和会のヒットマンとして分かっているのが石川裕雄(いしかわひろお)と長野修一ということがわかっています。そしてこの指示をだしたのが一和会の若頭である後藤栄治ではないかと言われています。
いったいどのような行動をしていたのか?ということですが、石川裕雄が竹中正久の愛人のマンションをつきとめたということです。GSハイムというマンションであるということを石川裕雄がつかんで、ここの同じマンションに石川裕雄は他人名義で部屋を借りて無線を置いたり武器を置いたりと着々と準備をしていたようです。
そして犯行当日ですが、竹中正久のマンションに一和会のヒットマン3人が襲撃したということが分かっています。この中のふたりが石川裕雄と長野修一ですがもうひとりの情報が分かりません。
一和会のヒットマン3人は中山勝正若頭と南力組長を●したんですが、竹中正久はこの場を何とか逃れましたがその後に病院で亡くなりました。そしてこのことから山口組の報復で山一抗争は終息へと向かっていきます。
このことについては後ほど触れていきますが、気になるのが一和会のヒットマンの抗争後について触れていきます。
一和会のヒットマン(石川裕雄・長野修一)は山一抗争のその後の現在。
一和会のヒットマンの抗争後ですが、3人とも無期懲役になっているという情報があるので今現在刑務所に服役しているということでしょう。石川裕雄がヒットマンの中の中心人物と言われており、本人も自分の指示で行ったということを言っています。そしてここからは山一抗争の難しいことについてわかる限りで触れていきます。
一和会の若頭・後藤栄治と吉田清澄について。
実は山一抗争の中で一和会のヒットマンに指示を出していたのは若頭の後藤栄治ではないか?という情報もあります。一和会は山本広が組長でしたが、若頭の後藤栄治が様々な指示を出していたのではないかという見方が有力みたいです。
また一和会の若頭である吉田清澄が山口組に拉致されてこのことから解散をせまられて、このことで解散届を警察に出して山口組本部に詫びを入れたことが山一抗争の終わりになったということも言われています。
情報が複雑でわからないこともあります。
最後に山一抗争で注目されていることについて触れていきます。
山一抗争についてのまとめ
山一抗争で大きく注目されたのが山口組の代紋です。この代紋の重さが山一抗争に深くかかわっていたと感じている人が多いということです。
最初は人数的に一和会のほうが多かったですが、一和会は山口組の代紋を捨てました。この代紋の重さはすごく重く、この代紋をすてたことでバランスをとれなくなったのではないか?ということも言われています。
広域化した組織を守っていくあるいは広域化した組織としてうごいていくといううえではやはりこの山口組の代紋ほど一致団結するものはないんじゃないかな?と僕は思います。
かなり難しい内容ですが分かる限り調べて書きました。
何かしら参考になっていただける点があれば何よりです。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。